この世界の何よりも大切なもの。
「昴!!!」

 どうしてこんなことになったんだろう。
 レナートの声が遠くから聞こえるような気がする。
 揺さぶられるのが解るけど、頭ははっきりしない。
 瞼は重くてどうも開かないし、言葉を発しようにも上手く話せない。

 ただレナートの声が聞こえるだけ。
 何度も何度も、叫ぶように俺の名前を呼び続けている。

 レナートが無事ならいいや。
 俺は大切なものを…大切な人を守った。

 この世界の何よりも大切なもの。

 レナートを。

『俺はどうなってもいい。だから昴を助けてくれ』




「おはようございます昴さん。どこへ行かれるんですか?」

 部屋から出ると、エマが洗濯物を片手に訊ねてきた。

「今から森に行こうと思うんだ」

「では、ルツさんに会うのですね」

 にこにこ笑いながらエマが言った。

「うん」

「実は、ルツさんにプレゼントがあるのです。昴さん、良かったら渡してもらえませんか?」

「いいよ」

「ありがとうございます!」

 そう返事をすると、エマはパタパタ階下へ降りていった。
 俺も追いかけるように降りる。
 出口で待っていると、エマが包みを持ってやってきた。

「これです」

 差し出されて受け取ると、クラウスの持っている本と同じくらいの大きさのそれは、ふわふわした感触だった。

「ルツさんに、セーターを編んでみました。寒いのではないかと思って」

「へぇ。エマからだって、伝えるよ。きっとルツも喜ぶ」

「はい。昴さん、お気をつけて」

 笑顔を返して、行ってくるよ、と呟く。

 外に出ると、青い空が広がっていた。




「…クラウス様…」

 昴を見送ると、エマは礼拝堂で山積みの本を読んでいたクラウスを呼んだ。

「どうかしましたか、エマ」

「昴さんは、先ほどルツさんに会いに行かれました」

「そうですか。ルツ君が一緒なら、ヴェンツェルもそう簡単には手を出せないでしょう」

「………昴さん…」

 目を伏せて苦しそうな顔をするエマに、クラウスは優しく声をかける。

「大丈夫ですよ」

「でも…でも…あんまりです!」

「まだ一週間しか経っていません。これから道が開けるかもしれませんし、もしかしたら変わらないかもしれない」

 クラウスはエマの手を取って落ち着くように促した。

「昴君は『アダムの息子』ですから、主の守護を受けています。きっと…大丈夫ですよ」

「……昴さんは…一番大切なものをなくしてしまったのに…それに気づかないなんて…」

 エマは頬を涙が伝うのも気にせずに話し続けた。

「一番大切なものを失ったことにも気づかないで、このまま何もなかったかのように生きるなんて」

 最後は叫ぶようだった。

「昴さんもレナートさんも可哀想です」




「昴、おはよう」

「おはよう、ルツ」

 ルツが笑顔で言った。

「それは何だ?」

「あぁ、これ?」

 ルツが手に持っていた包みを指差す。

「エマからプレゼントだって、ルツに」

「ルツに?」

 ルツに渡すと、不思議そうな顔をしながら包みを開ける。

「…これは何だ?」

「セーターだってさ。ルツが寒いだろうからって、エマが編んだらしい」

 黒に近い紺色のセーターが出てきた。
 俺はルツからセーターを受け取って着せてやる。

「昴、似合うか?」

「うん、似合う」

 暖かそうにしてるし、良かった。

「昴、エマにありがとう、したい」

 お礼をしたいってことかな?

「そうか、いいんじやないかな。どうするんだ?」

「解らない…どうしたらいい?」

 何か…お礼を。
 エマは何でも喜ぶだろう。

「そう言えば、エマはよくここらへんで薬草を集めてるな。薬草摘んでいってあげたらどうだ?」

「薬草か?」

「そう」

「解った」

 ルツはここに住んでるし、薬草についても俺より解るみたいだった。

「昴、ありがとう。俺一人でやれる。だから昴は遊んできていい」

「どういたしまして。じゃあ、俺は行くよ。またな、ルツ」

 ルツに挨拶をして、森を出た。




 3ヶ月前、俺はこの世界にアダムの息子として呼ばれた。
 10年に一度の満月の夜に誰かの願いを叶えて自分の世界に帰るはずだった。

 でも。

「どうして俺はここにいるんだろう」

 思い出せない。

 願いを叶えて帰るはずだったのに、俺はまだエリダラーダにいる。

 誰かの願いを叶えたから、俺はここにいるらしい。
 俺は、そこら辺の記憶をほとんど全部なくしている。
 だから解らない。
 でも、誰の願いを叶えたのか、どんな願いだったのかは…誰も教えてくれなかった。

「…誰かのことを…忘れてるような…気がする…」

 呟くけど、思い出せない。

 クラウス。
 エマ。
 シグルド。
 イヴァン。
 アレク。
 イーヴリン。
 ルツ。
 スティラルカ。
 ユエ。
 ティーナ。
 リスルゥ。
 ヴェンツェル。

 セルゲイ。
 モイセイ。
 ロスチラフ。
 イヴァンの子分たち。

 ………誰だろう。

 誰のことも忘れていないはず。
 でも、思い出せない。

「…大切な人のはずなのに」

 きっと、その人の願いを叶えたんだ。

 どうして忘れているんだろう。